サビエル記念聖堂。サビエルは天文20年、大内氏の許可を得て約半年山口で布教した。

サビエルと義隆

 宣教師フランシスコ・サビエルが最初に山口に義隆を訪ねたのは、天文19年(1550)10月である。東洋への布教を企図したサビエルは、同18年鹿児島に上陸、領主島津貴久に謁見、布教に従事したが、仏教徒の迫害を受けたため、将軍に布教の許可を得るべく東上の途次、山口に立ち寄ったのである。同19年12月12日京都に上ったが京都は荒廃し、将軍の権力がないことを知ったサビエルは、将軍から全国布教の許可を得ることを断念した。


 一旦平戸に帰ったサビエルは、翌12年3月、再び山口を訪れ、法衣法冠に威儀を正して義隆に謁し、時計やオルゴール、望遠鏡など西洋の珍しい数々の贈り物を献上した。義隆はその好意を謝して布教を許可、説教所として大道寺を与えた。日本におけるカトリック教の正式な布教が認められたのは、これが最初である。

フランシスコ・
ザビエル肖像


 大正15年、山口市内金古曽の大道寺跡にサビエルの胸像と紋章をはめこんだサビエル記念碑が立てられた。しかし、この碑は太平洋戦争に際し、銅供出のため取りこわされたが、昭和24年6月聖サビエル国際巡礼団の来山を前にして再建された。亀山町のサビエル記念堂は、サビエル来日400年を記念して、昭和26年に建てられた教会だが、堂内のステンドグラスには、義隆に謁見するサビエルの像が描かれている。ここにも大内文化の残照がある。


聖堂天窓のステンドグラスには大内氏の紋章「大内菱」が形どられている。

大内文化の遺産

 弘世の山口開府以来約200年、山口の地に燦然と輝きつづけた大内文化は、500年の歳月を過ぎたいまも、私たちに有形、無形の遺産を残してくれた。それは雪舟の絵画であり、雲谷派によって継承されたその画法であり、さらには500年の風雪に耐えながら、いまなお端正なシルエットを浮き彫りにする瑠璃光寺(るりこうじ)五重塔でもある。

瑠璃光寺五重塔

また大内領内で印刷された聚分韻略(しゅうぶんいんりゃく)、妙法蓮華経などのいわゆる大内版、朝鮮や明から舶載された典籍、書画のほか、室町時代の彫刻、刀剣、鋳造品、漆器など枚挙にいとまがない。これら遺産のあるものはきらびやかに、あるものは格調高く、大内文化をほうふつとさせる。そして、いまなおその美を高く評価されるこれらの遺産の数々が室町時代、つまり応永、応仁の乱に象徴される、あの兵乱の世、あすをも知れぬ兵火の中に生きる人たちによって創られたものである。私たちは大内文化の偉大さを改めて思い知らされるのである。