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本名寿久。明治34年、旧温泉郡川上村(現在の川内町)に生まれる。松山商業学校(現在の松山商業高校)を経て、大正13年、明治大学政治学科卒。愛国生命保険を経て、伊予鉄道電気(現在の伊予鉄道)入社、昭和31年定年退職した。
スポーツ万能。古典芸能も一通り修め、お座敷では芸者も顔負けの芸上手だった。また、俳画・8ミリ映画製作・ラジオ番組担当・焼き物と、広く深く多種多芸で、会う人を魅了。その飄々たる人柄と伊予弁の語り口から、地元だけでなく旅行者からも“松山の顔”として広く知られることとなる。道後町議を1期つとめ、道後振興にも尽力。湯の中で数時間、無料でモデルをつとめた我慢の観光ポスターは、いまも傑作の評が高い。
この人の俳句は、大正15年から。「渋柿」に7年、依頼無所属を貫き、独自の俳境を拓く。句碑は13基ある。この人また、数千点のコレクションを持つ狸の研究家でもあり、市中で本物を飼い、同好の士と寄り合っては“他抜き茶会”“狸祭り”など催事も多彩に拓いている。昭和52年没。
風流を只一匹の虫に聴く
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